「良し」「悪し」

私の心の中には、大切にしている言葉がいくつかあります。

その一つが、
「人間万事塞翁が馬」。

このことわざの由来となったお話は、少しずつ違った書かれ方をされているように見受けます。
数ある中から、自分に一番しっくり来る解釈を選んだら良いのかな、と思っています。

これ以降はあくまでも私個人の解釈によるものですので、予めご了承ください。
私がこのことわざを聞かせてもらったのは、東京の父からでした。

人生において、幸せが不幸に、不幸が幸せにいつ転じるかはわからないのだから、その予測しがたいことに喜んだり悲しんだりすることはない、というとらえ方をしております。

それ以来、このことわざを時折思い起こしては、自分への戒めにしたり、慰めにしたり、として参りました。

そして、45年間生きてきた中で、このことわざを身をもって感じたこともありました。

このお話に出てくる老人のように、目の前の出来事に一喜一憂せず、静観或いは用心をして過ごす、ということは私個人としては、多分、一生かけてもなれないように思います。

でも、「最悪や!」と思ったことが後に「救い」となったこと。
逆に「やったー!」と喜んだことが後に「苦しみの元」になったこと。

両方ございました。

そしてそのたび、いつも思うこと。

目の前の出来事全て一つ一つが、あくまでも「経過」の一つに過ぎないのだということ。
また、それは一生という時間においては「点」のようなごく短い期間のことなのかもしれないということ。
そして、起きたことにはすべて「因」があるということ。

またそれはすべて、自分自身にあるということを知りました。

とはいえその「経過」を軽んじるということでは決してありません。
その「経過」の一つ一つの積み重ねが、「明日」「未来」の種となり、実となるのだと思っています。

それと同時に物事に対して「良し」「悪し」を思うこと自体が、もしかしたら驕りなのかもしれないと思う気持ちも。この歳になり芽生えてきました。

そうは言っても、
落ち込む時、
泣く時、
苛立つ時、
悔しい時、
愚痴をこぼす時、
めちゃくちゃあります。

それでも、ひとしきり自分の感情に身を委ねたら、心はまたいつもの場所へ立ち戻ります。
立ち戻れるまでの時間はその時々でさまざまです。
それでも、立ち戻る場所があることはありがたいです。

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